陰キャのバイのキャラを全然見かけないという話

 

 ほぼタイトルで言い尽くしているのですが。
 娯楽作品では特にそうなのかもしれないけれど、そもそもゲイとかビアン(と呼びうるような状態)が描かれるとき、同性愛者としてのアイデンティティが明示されることより、同性間の恋愛とか、同性への欲望の描写を通じて描かれることの方が多いと思う。そうなると、バイの場合は男も女も相手にしていて……となってしまいがちなのは、テクニカルな問題としては理解できる。
 そもそも、現実を反映しているフィクションの方が偉い、という考え方はかなり好きじゃないし、「政治的に正しいバイ描写」みたいなものを出されても面白いかどうかは疑問な気もするので、とくに何か物申したい訳でもないのですが。
 とはいえ、そういうのが上手く書かれてる作品があったら読んでみたいなあと思うのでした。非社交的で恋愛経験ほぼゼロのバイとしては……

詩人たちと戦争についてのメモ(①)

嗚呼古城なにをか語り

岸の波なにをか答ふ

過し世を静かに思へ

百年もきのふのごとし

(島崎藤村「千曲川のほとりにて」『若菜集』)

 

その夏の葬りの死者が戦死者にあらざるを蔑されき 忘れず

(塚本邦雄『詩魂玲瓏』)

 

私には自前のことばで唄う童謡、わらべうたが一つもありません。[……]あり余る朝鮮の風土のなかで、頬もめげよとばかり声はりあげて唄った歌が、そのまま私がかかえている私の日本です。いやそれが私の植民地なのです。

(金時鐘『朝鮮と日本に生きる』)*1

 

5月18日は光州事件から46周年の日だった。日本統治下の済州島で育ち、48年の四・三事件を逃れて在日の日本語詩人となった金時鐘は、のちに『光州詩片』としてまとめられる連作詩を80年から83年にかけて発表している。短いセンテンスの折り重ねを通じて、美しい朝鮮の風土のなかに、死と暴力の記憶、破壊された身体の描写が織り込まれる。《まだ生きつづけているものがあるとすれば/耐えしのいだ時代よりも/もっと無惨な 砕けた記憶》《それでもまだ/つきない悔いがあるとすれば/日は変わりなく銃口の尖で光っており/海はたわみ/雲は流れる。》(「まだあるとすれば」)。そう語る著者の眼には、光州の惨禍に重ねあわせるようにして、身をもって体験した四・三の白色テロの惨禍、身体に刻まれたその記憶、そして恐怖政治の根を作り出した日本の植民地統治の姿が映っていたのかもしれない。

 のちの回想によれば、皇民化教育のもとで育った金は、17歳で迎えた8月15日の<解放>まで《母国の文字を何一つ知らなかった》*2という。そのかわりに金少年が親しんでいたのが、島崎藤村『若菜集』や北原白秋『思ひ出』などの叙情詩集、そして童謡・唱歌といった日本語の詩歌だった。親しみやすい音数律で綴られた歌の数々から、筋金入りの皇国少年だった金は、情感そのものを形づくるほどの影響を受けたという。植民地主義と暴力の記憶をその後の人生をかけて反芻し、日韓に残るその残滓を厳しく問いつづけた金、《葬るな人よ/冥福を祈るな》(「冥福を祈るな」)と綴り、暴力を忘却させる抒情に抗いつづけた金にしてなお、《今もって私は「おぼろ月夜」に情感を揺すぶられます。瞼がおぼろにもなります》と語らしめるほどの力が、宗主国日本の「抒情詩」にはあった。《思えば思うほど私はその情感ゆたかな日本の歌にすっぽりと包まれて、なんのてらいも抗いもなく新生日本人の皇国少年になっていった者でした》*3。そう批判的にかえりみてなお、《そのような歌でしか振り返れない少年期をみじめとも思い、かぎりなくいとおしいとも思います》*4と述懐するほかない言葉の苦さ、悲しさははかりしれない。

 植民地朝鮮で皇国少年・少女たちが藤村や白秋らの詩歌を熱心にそらんじていたそのとき、当の詩人たちはこぞって大東亜戦争翼賛歌を量産するさなかにあった。坪井秀人『声と祝祭』(名古屋大学出版会、1997年)をはじめとする研究で跡づけられているように、白秋や西條八十など、象徴派的芸術詩から大衆歌謡・童謡に転じた大家ばかりでなく、北園克衛や伊東静雄といった優れたモダニスト詩人たち、そして斎藤茂吉や土岐善麿、前川佐美雄といった戦前・戦後を代表する歌人たちも、対中・対米開戦を機に雪崩をうって国策迎合にのめり込み、あるいはやむをえず巻き込まれていくことになる。

 中野敏男『詩歌と戦争』(NHK出版、2012年)は、白秋が戦争協力に向かっていった道のりを理解するための補助線として、関東大震災の重要性に着目している。災害による旧秩序の崩壊を契機に新たな共同体の構築へと向かう民衆の動きは、白秋らの童謡・民謡運動に格好の活躍の場を与えた。情感を刺激し、身体的共同性をともなう歌謡合唱という実践が、震災後の人々のニーズをとらえたからこそ、白秋らの大衆歌謡・童謡の成功があった。しかし<郷愁>という抒情でくるまれたそれらの歌の本質には、日本語によって日本の風土を讃える文化ナショナリズムがあった、と中野は論じる。白秋の歌に込められた優しさ、ノスタルジアには、ひたすら内面的共同性への沈潜と、そこから排除される他者の不可視化に落ち込んで行かざるをえない内向性があった。こうした中野の指摘は、白秋やその周辺の童謡詩人ばかりでなく、『赤い鳥』などで活動の場を同じくしていた小川未明などの辿った道を考えるうえでも一考の価値がある*5

 震災経験の中で<民衆>にアクセスする芸術の力に気付かされ、それをきっかけとして大衆向け芸術の制作へと傾斜していった——そうした経緯は、白秋とならぶ大衆歌謡・童謡界のスターである西條八十も、回想の中で自ら好んで語っていたことだった*6。のちに日中戦線の従軍取材や「日本文学報国会」の組織に携わり、「二輪の桜」や「若鷲の歌」のような軍歌、「蘇州夜曲」のコロニアルな哀歌で戦中も変わらず人々の情感を揺さぶった八十の姿勢を、筒井清忠は「庶民の心を癒すことを誰よりも考えた」*7と形容している。たしかにそうなのだろう。しかしそのように<庶民>を、若い兵士を、外地の植民者たちを——時に当局との協力のもとに——慰撫することは、戦時下の状況において何を意味していたのだろうか。そう考えるとき、彼が大震災の避難所において一少年の素朴なハーモニカに《深い深い啓示を与えられた》*8とするエピソードも、単に美談として済ませるわけにはいかなくなる。

 ヨーロッパ美術史で広く論じられるように、人間の認識のマテリアルな基盤を露呈させ、その意識的な形態化をつうじて美的認識そのものを変革しようするモダニズム芸術の欲望は、大衆の組織化・<新しい人間>の創造を目論むファシズム、スターリニズムと結びつくことになった。しかしおそらく、日本近代詩の例はそうした図式に当てはまらないように感じられる。<民衆>へのアクセスを指向し、実践しえたのは、むしろ白秋・八十のような大衆詩人の優れた抒情詩であって、出版・レコード・ラジオ放送というメディア基盤にしっかりと支えられたノスタルジアだった。抒情的哀感を通じた共同性の幻視と、その果ての<日本>への回帰……。戦前・戦中の日本でうんざりするほど繰り返されたそうした図式に芯まで身を浸すほど、八十は芸術家として落ちぶれることは決してなかった。しかしそうした有象無象の転向者たちの軌跡と遠く響き合うものを、八十の大衆向けの詩作がもっていた可能性を考えなくてはならない。

 のちのプロパガンダ作品においても優れた美的センスを失わなかった、そしてそれゆえに優れたプロパガンダ作家たりえた八十のケースとくらべ、北園克衛や高村光太郎、短歌では前川佐美雄ら、広義のモダニストとしていっとき名を馳せていた詩人・芸術家たちの翼賛的作品に見るべきものは少ない。短歌は《広く民衆に愛誦せられ支持せらることが肝要である》*9という佐美雄自身の自負に反して、彼らの(望んでの、あるいは望まずの)愛国的活動も、彼らの戦前・戦後の偉大な作品たちと同様、人口に膾炙する影響力をついに持つことはなかった。このように述べれば、日本のモダニズム芸術を愛する者にとってはいくばくかの慰めとなるだろうか。

 よく知られているように、日本の詩人・歌人たちのなかで、はっきりとした反省の弁を戦後に語った者は少ない。「国民は黙って事変に処した」と小林秀雄は述べたが、その小林にせよ、八十や茂吉、佐美雄といった大家たちにせよ、日中戦争の8年間、大東亜戦争の4年間など、彼らの長い人生、長いキャリアにとってはほんの一部を占めるにすぎず、それにどう<対処>したか、せねばならなかったということに戦後の回想の焦点が当たるのは理解できる。そのこと自体は責められるものではないし、《誰だって戦争にはぜったい賛同したくないけれど、始まって、負けごしになったら、やはり最善を尽したくなるものだ》*10という八十の弁なども、彼なりに正直なものと評価しうるのかもしれない。

 しかし、戦争がそのように<対処>すべきものとしてではなく、まったく手の及びがたい破局として降りかかったより若い世代にとって、見えてくるもの、背負わざるを得なかったものは自ずから異なっていただろう。佐美雄に師事し、「水葬物語」(1951)で鮮烈なデビューを飾った塚本邦雄は、戦争への呪詛、そして戦争を可能にした日本文化への呪詛というモチーフを、晩年の作品にいたるまで捨てることはなかった。また佐美雄門下では、同じく戦後短歌を代表する歌人となった山中智恵子の天皇批判歌も忘れがたい。《天皇制の無化ののちわが死なむかな》(『夢之記』1992) と詠んだ山中は、政治的イデオロギーの対極にあって不毛な革命を志した三島由紀夫と同年の生まれだった。<対処>の埒外にあって重くのしかかり続けた戦争、その影を精算しようとする絶望的な試みを、戦中派の共通経験として二人の中に見てとるのは後知恵に過ぎるだろうか。

 私の乏しい知識の限り、塚本も山中も、師の戦時下の歌について、批判めいたことを書き残すことはなかった。どれほど政治的な問題意識のもとでも、歌としての技巧・美意識を捨てなかった二人にとって、やはり優れた歌人の真価はその下限ではなく、頂点で図られるべきと思われたのだろうか。終戦直後の時期の左派歌人による批判キャンペーンを除けば、土岐に師事した篠弘や、そのさらに下の世代の水原紫苑ら、優れた歌人・研究者たちが戦争と短歌の結びつきを論ずるようになったのは、戦前・戦中派の世代が表舞台を去りはじめた頃のことだった。

 他方、児童文学の世界では、山中らと同世代の上野瞭が「戦時下の児童文学——小川未明の場合」というエッセイを1971年に発表している。戦争への参加、自己への被害、他者への加害。《まるで家畜のように(あるいは、それ以下の形で)死んでいった人間がいたこと》*11。そうした個々の体験を、社会の現実をふまえた思想・理論によって省みるのではなく、ただ己の美学の中に昇華させる材料として扱いつづけることで、未明は転変する現実の中を融通無碍に《スライド》してゆくことができた。《「新しい現実は常に理論を飛躍する」という発想は、皇国史観に立脚する未明の誕生をうながしただけではなく、「戦後民主主義」の中に自己の存在理由を発見する場合の、未明的な、あまりに未明的な発想でもあったのだ》*12。こうした評価の妥当性は別に考えなければならないとしても、戦中に青春を過ごした上野がそのような未明の姿勢を《「哀しい」》としたこと、そして『ちょんまげ手まり唄』(1968)のような作品を通じて、その社会的・批判的意識を実践しようとしたことは、歴史としての重みをもっている。

 北園克衛の優れた研究者であるジョン・ソルトは、北園の盟友・山本悍右の展覧会を企画した際のエピソードをユーモラスに語っている。「日曜美術館」の取材に訪れたNHKの記者に「山本の作品を観客はどのように見ればよいのか」と問われたソルトは、彼を検挙・尋問した思想警察の目で見てほしい、と答えたところ、すげなくその場でボツにされてしまったという*13。どのような意図のもとでそう語ったのか、ソルトはそれ以上述べていないが、意義深い提案のように感じられる。

 上述したように、戦争を詠じ、愛国を歌った当人の目線からは、時局への<対処>という視点が前面に出ることは避けられない。自由と平和、民主主義の価値を固く信じる私たちの視線がそれと切り結ぶとき、<追及>と<弁護>という図式がいきおいせり出してくることになる。しかし、詩人たちの作品をひとつのテクストとして見るとき、それに触れ、影響を受けた広義の当事者たちは、詩人たち当人を、そして私たちを超えてはるかに広く存在し、テクストに歴史的な厚みを加えているのではないだろうか。そうした視線の複数性をつねに意識することが、<詩人たちと戦争>という問題に向き合ううえで大切なように感じられる。鵜の目鷹の目で弾圧の糸口を探り当てようとしていた特高警察たち。彼らを尊敬し、師事しながら別の道を辿った若者たち。詩人たちの<美しい日本語>を精一杯に吸収し、必死に<立派な日本人>となろうとしていた植民地の子供たち。あるいは、のちに『蝶』『ゆめこ縮緬』などの作品で近代抒情詩の優れた案内者となった皆川博子は、植民地朝鮮の首都・京城の女学生として同時代を過ごしていた。こうした時間的・空間的な広がりを、現代の私たちの目の前にあるテクストが背負っていることを忘れないようにしたい。

 

*1:金時鐘(2012)『朝鮮と日本に生きる——済州島から猪飼野へ』岩波書店, 54.

*2:金時鐘(2024)『日本から光州を見つめる(金時鐘コレクション⑤)』藤原書店, 197.  初出1981年。

*3:金 (2012), 53.

*4:同上, 54.

*5:ただし、植民地主義や<癒し>のナショナリズムと白秋の歌のつながりについて、中野の議論は実証に欠ける感が否めず、個々の作品に即したより精緻な検証が必要になる

*6:西條八十(2023)「震災の一夜」児玉千尋編『文豪たちの関東大震災』皓星者, 261-264.  初出1948年。戦後の回想だが、筒井下掲書によればおそらく信頼できるとのこと

*7:筒井清忠(2005)『西條八十』中央公論新社, 262.

*8:西条前掲書, 263.

*9:引用は以下に依る。石原深予(2025)「「戦争の歌」を詠まないでいられた可能性——前川佐美雄の場合」小松靖彦編『戦中から戦後への<切断=連続>(検証・戦争に加担した日本文学2)』花鳥社, 158.

*10:西条嫩子(1998)『[かなりや]をつくった西条八十——父西条八十』ゆまに書房

*11:上野瞭(1974)『ネバーランドの発想——児童文学の周辺』すばる書房, 155.

*12:上野前掲書, 150.

*13:ジョン・ソルト(2025)「平和な時代に振り返って鏡をのぞき込むと、後ろに小さく北園克衛像が見える」小松編前掲書, 18.

藤宮若菜さんの短歌について

 

 私は悲しい、と口に出してみる。言葉にしたとたんに嘘のように響く。

 私の悲しみと私の言葉のあいだにはあまりにもたくさんの距離があって、「AはBだ」という普通の言葉ではまったく手が届かない、と思う。

 

 死んだ友達に何度も電話するそういう行動に酔ってるから(藤宮若菜『天国さよなら』)

 

 藤宮若菜さんの歌の「わたし」は、「悲しい」という言葉すら、ほとんど口にしない。とても重い体験や思いを、なんでもないことのように、ふと呟く。その奥に特別ななにかを読みとろうとする私の視線は、「わたし」の言葉に遮られる。「そういう行動に酔ってるから」。ただそれだけのことだ、と。

 語る「わたし」と、それを読む私。二つの一人称のはざまに、言葉にされない悲しみが揺らいでいる。

 

 わたしの幸せが私の頭の外にもあったらいいのになあ(『まばたきで消えていく』)

 

 私の幸せは、私の頭の中にしかない。そう口にすればそれは、私は幸せではない、と言っているのと同じで、けれど「あったらいいのになあ」とほとんど朗らかにつぶやく「わたし」に、その屈託はない。「わたし」はたしかに幸せなのだ。それが頭の外にも、そう、あったらいいのになあ、と思うだけで。

 「わたしは幸せではない」という実質的なメッセージと、あくまで穏やかな文字通りの意味との矛盾。その亀裂のなかに、読者としての私は、隠されているものを読み取ろうとする。おそろしいことを穏やかに語る「わたし」の顔の裏に、いったいどれほどの思いがあるのだろう、と。けれどほんとうはきっと、隠されているものなんて何もないのだ。ただの空白。ただの空っぽの悲しみ。頭が割れそうになるほどの。

 

 藤宮さんの歌の「わたし」は、というよりほとんどの一人称の歌がそうなのかもしれないけれど、他人になにかを伝えようとはしていない、と思う。「わたし」のなかに幾重にも折りたたまれたコンテクストが、ふと、開かれないまま言葉にされ、誰にも拾われないまま消えていく。

 

 しゃんぐりら しゃん しゃん 死なない朝だって自分でえらんだ気がしてるだけ (『まばたきで消えていく』)

 

 「死を選ぶ」、と普通の言葉はいう。けれど、しゃん、しゃん、とつぶやく「わたし」にとって、あえて「えらぶ」のは死なないことの方だ。いま「わたし」が生きているのは、毎日それを選んできたからで、けれどそれすらも、と「わたし」は言う、ほんとうはそんな気がしているだけで、生きることも、死ぬことも、自分の手の届かないところにある。

 悲しいから死ねるわけでもない。悲しみにあらがって生きられるわけでもない。だとしたら、私の悲しみにいったいなんの意味があるのだろう。しゃん、しゃん、とくり返される楽園の名前の断片とともに、目をさますたびに訪れる(かもしれない)「死なない朝」の光のなかで、口にされないままの問いが木霊のように響く。

 

 ともだちが生き返るよりわたしが死ぬ方がはやいか 牛乳198円の日 (『まばたきで消えていく』)

 

 スーパーの乳製品の棚の前で、かごを片手に値札を眺めながら、ふと気がつく。「ともだちが生き返るよりわたしが死ぬ方がはやいか」と。

 「わたしが死ぬ方がはやい」とはどういうことなのだろう。きっとともだちが生き返るのにはものすごく時間がかかるから(最後の審判というものがくるのはずっと先のことらしい)、その前に私が死んでしまう、ということか。それとも、死んだともだちが生き返るのを待つより、私から会いにいく方がはやい、ということなのか。そのどちらもきっと本当のことで、そのことにふと気がつく。そして安売りの牛乳を手に取る。

 変えられない過去と、日常の中で出会うものごと。そのふたつが触れ合う点のような場所で「わたし」は語る。「わたし」につけられたいくつもの傷跡をとおして、「わたし」の過去のかけらが零れ落ちる。そして日常が続いていく。

 

 宛を様に書き換える感じの茶番たまにはずっと死なないみたいに

 ほんとうみたいのみたいがだいじPAの横で飲んでた薄いビールも(『まばたきで消えていく』)

 えいえんごっこをえいえんにする 雨あがりの川はかすかな雨を運んで

 きみといた日々のすべてが比喩になりときどき月あかりで目をさます (『天国さよなら』)

 

 「みたい」なものでしかない日常を生きるなかで、大切だった日々の記憶は比喩に擦り切れていく。「わたし」はそれを受け入れて、仮初の日々を淡々と生きていく。

 そんな「わたし」が口にするからこそ、「天国」という途方もない、うそような言葉に胸を打たれる。

 

 天国でまいごになって西口へぬけたらきっと立っている 笑っている

 天国で会ってもきみはきみだからわたしに生きてと祈ってくれる (『天国さよなら』)

 

 すべてが消えていく日々のなかで、あえて別の世界の存在を信じてみせること。消え去っていくものの記憶を書きとめること。

 きっとそれは言葉ができる一番大切なことで、そこに救いがあってほしい、と思う。そんな祈りを込めて、紡がれた「わたし」の言葉を何度も読みかえす。

 

ロシア・ウクライナの知識人と「カティンの森」の記憶

 

カティンの森」事件40周年にあたる1980年4月、ソ連の異論派 (人権活動家) のグループによって、ひとつの声明が公表されました。起草者はヴラジーミル・マクシーモフ (Владимир Максимов)。当時パリで刊行され、ソ連の異論派知識人の拠点となっていた雑誌 Континент の編集長でした。この声明は同誌上で公表されると同時に、ポーランド異論派の代表的雑誌であった Kultura 誌に翻訳掲載されました*1。以下はこの声明を日本語に訳したものです。

 

悔悟の念をもって見つめ直せ  (Оглянись в раскаянии/ Obejrzyj ze skruchą)

 

 ポーランドにとって忘れがたく、痛ましい日付を表すこの日、ソ連の人権活動家である私たちは、ポーランドの友人たちに向けて、そして彼らを通じ全てのポーランド国民に向けて、改めて誓いたいと思います。私たちの国を公式に代表する者たちが、カティンにおいて犯した罪に対し、私たちの国は責任を負っています。そのことを私たちは、これまでも、そしてこれからも、決して忘れることはありません。

 この悲劇に関わった全ての人々に対して、私たちソ連国民は公正な報いを与えます。そしてそれが実現される日はもう間もないと、私たちは確信しています。迫害者にはその罪の重さに、そして犠牲者にはその苦難の大きさに応じた報いを。

 

1980年4月

 カティンの犯罪から40年の節目に際して

 この声明へのさらなる署名を歓迎します

 

 

 署名者として以下の32人の名前が記されています (ロシア語表記をクリックすると、ウィキペディア等のページに飛びます)*2。これらの署名者の多くは、政治的理由からソ連当局に逮捕され、解放後に外国へ逃れた人々でした。

 

リュドミーラ・アレクシェーエバ  (Людмила Алексеева)

アンドレイ・アマーリリク  (Андрей Амальрик)

ヴラジーミル・ブコーフスキー  (Владимир Буковский)

ボリス・ヴァイリ  (Борис Вайль)

トマス・ヴェンツロヴァ  (Томас Венцлова)

アレクサンドル・ギンズブルグ  (Александр Гинзбург)

ナターリヤ・ゴルバネフスカヤ  (Наталья Горбаневская)

ジナイーダ・グリゴレンコ、ピョートル・グリゴレンコ  (Зинаида и Петр Григоренко)

ボリス・エフィーモフ  (Борис Ефимов)

タチヤーナ・ジートニコヴァ=プリューシ  (Татьяна Житникова (Плющ) )

アリーナ・ジョルコフスカヤ=ギンズブルグ  (Арина Жолковская (Гинзбург) )

ユーリヤ・ザクス  (Юлия Загс)

エドゥアルド・クズネツォフ  (Эдуард Кузнецов)

パヴェル・リトヴィノフ  (Павер Литвинов)

クロニード・リュバルスキー (Кронид Любарский)

ヴラヂーミル・マクシーモフ  (Владимир Максимов)

ヴラジーミル・マリンコーヴィチ、ガリーナ・マリンコーヴィチ  (Владимир и Галина Малинкович)

ライサ・モローズ  (Раиса Мороз)

ヴィクトール・ネクラーソフ  (Виктор Некрасов)

ヴラドレーン・パヴレンコフ、スヴェトラーナ・パヴレンコフ (Владлен и Светлана Павленковы)

レオニード・プリューシ  (Леонид Плющ)

ガリーナ・サーロヴァ=リュバルスカヤ  (Галина Салова (Люварская) )

ジーヤ・スヴェトリーチナヤ  (Надия Свитличная)

パヴェル・ストカテリヌィ  (Павел Стокательный)

ヴァレンチン・トゥルチーン  (Валентин Турчин)

ボリス・シュラーギン  (Борис Шрагин)

ユーリイ・シュテイン、ヴェロニカ・シュテイン  (Юрий и Вероника Штейн)

タチヤーナ・ホドローヴィチ  (Татьяна Ходорович)

 

 署名者のプロフィールを見ると、ウクライナ出身の人々が多く名を連ねているのが目を引きます*3。この時期、ロシア、ウクライナポーランドのそれぞれの国の異論派の関係は、必ずしも全面的に良好とはいえない状態にありました。そうした状況のなかでも、Континент 誌および Kultura 誌周辺の人々は、民主化に向けた諸国間の協働を実現すべく、努力を重ねていたことが知られています。互いのあいだでも難しい歴史的問題を抱えていたロシアとウクライナの人々が、自らの歴史的責任を直視するという誓いのもとに集まったこと、そしてその成果がポーランドの知識人の協力のもとに公表されたことは、彼らの共通の課題意識と願いを表すものと考えられます。

 

 40年前の惨劇が公正に追悼されるようになる、「その日はもう間もない (уже недалек тот день/ bliski jest już dzień)」。そう記されてから、さらに43年の月日が流れました。この間、問題を引き継いだロシア政府によって事件の再調査が行われ、ロシア大統領によってソ連の加害責任が明確に認められるなど、重要な進展が見られました。しかし、すでに2010年、30年前の声明を振り返るなかで存命の署名者たちが述べていたように*4、ロシア政府の対応は依然として十分なものとはいえず、また新たにソ連体制の犯罪を黙殺しようとする動きが広まるようになっていました。そして今日、かつてカティンの犠牲者への追悼を述べたその同じ口で、プーチンは新たな侵略戦争を指令し、戦争犯罪を正当化し、そして自国とウクライナの民主主義を破壊しようとしています。2014年以来、ロシア国家が行なっている戦争は、ウクライナの人々の生命を奪い、生活を破壊するのみならず、民主主義と歴史の真実 (今日ではあまりにも陳腐に響く言葉かもしれませんが) のために闘ってきた、全ての人々の願いと努力を踏み躙るものです。

 

 2010年代以降、ロシア・東欧諸国間の対立の深まりとともに、歴史認識上の軋轢という問題への関心も高まっています。しかし、そのような状況であるからこそ、かつて困難な状況のなかで行われ、そして今日も困難な状況のなかで続けられている、記憶と和解へ向けた取り組みの意義が、改めて問われなければならないと強く思います。

 

 

カティンにおける虐殺から83年目の追悼記念日に

*1:当時のКонтинент誌および Kultura 誌の紙面は、こちらこちらで確認することができます。声明が掲載されているのは、それぞれ142頁と143頁のあいだの頁 (頁数記載なし) 、そして74頁です。また、1981年にマクシーモフが受けたインタビューでは、声明の裏にあった問題意識が語られています (こちらのページの後半部で読むことができます)。原語を使われる方は、ぜひこれらの資料もご覧になりつつお読みいただければ幸いです。

*2:一部の署名者に関しては、残念ながらプロフィールに関する情報を集めることができませんでした。また、おそらく非ロシア系と思われる方についても、私の言語能力の都合上、ほとんどの場合ロシア語のページを示しています。

*3:ロシアとウクライナ以外のソ連構成国家からは、リトアニアの作家ヴェンツロヴァが参加しています。

*4:こちらのページで読むことができます(ポーランド語)。ロシアの署名者たちはその後もプーチン政権に批判的な姿勢を保ち、最近まで存命だったアレクシェーエヴァやブコーフスキーは、2014年のクリミア占領にも反対を表明していました。