ロシア・ウクライナの知識人と「カティンの森」の記憶

 

カティンの森」事件40周年にあたる1980年4月、ソ連の異論派 (人権活動家) のグループによって、ひとつの声明が公表されました。起草者はヴラジーミル・マクシーモフ (Владимир Максимов)。当時パリで刊行され、ソ連の異論派知識人の拠点となっていた雑誌 Континент の編集長でした。この声明は同誌上で公表されると同時に、ポーランド異論派の代表的雑誌であった Kultura 誌に翻訳掲載されました*1。以下はこの声明を日本語に訳したものです。

 

悔悟の念をもって見つめ直せ  (Оглянись в раскаянии/ Obejrzyj ze skruchą)

 

 ポーランドにとって忘れがたく、痛ましい日付を表すこの日、ソ連の人権活動家である私たちは、ポーランドの友人たちに向けて、そして彼らを通じ全てのポーランド国民に向けて、改めて誓いたいと思います。私たちの国を公式に代表する者たちが、カティンにおいて犯した罪に対し、私たちの国は責任を負っています。そのことを私たちは、これまでも、そしてこれからも、決して忘れることはありません。

 この悲劇に関わった全ての人々に対して、私たちソ連国民は公正な報いを与えます。そしてそれが実現される日はもう間もないと、私たちは確信しています。迫害者にはその罪の重さに、そして犠牲者にはその苦難の大きさに応じた報いを。

 

1980年4月

 カティンの犯罪から40年の節目に際して

 この声明へのさらなる署名を歓迎します

 

 

 署名者として以下の32人の名前が記されています (ロシア語表記をクリックすると、ウィキペディア等のページに飛びます)*2。これらの署名者の多くは、政治的理由からソ連当局に逮捕され、解放後に外国へ逃れた人々でした。

 

リュドミーラ・アレクシェーエバ  (Людмила Алексеева)

アンドレイ・アマーリリク  (Андрей Амальрик)

ヴラジーミル・ブコーフスキー  (Владимир Буковский)

ボリス・ヴァイリ  (Борис Вайль)

トマス・ヴェンツロヴァ  (Томас Венцлова)

アレクサンドル・ギンズブルグ  (Александр Гинзбург)

ナターリヤ・ゴルバネフスカヤ  (Наталья Горбаневская)

ジナイーダ・グリゴレンコ、ピョートル・グリゴレンコ  (Зинаида и Петр Григоренко)

ボリス・エフィーモフ  (Борис Ефимов)

タチヤーナ・ジートニコヴァ=プリューシ  (Татьяна Житникова (Плющ) )

アリーナ・ジョルコフスカヤ=ギンズブルグ  (Арина Жолковская (Гинзбург) )

ユーリヤ・ザクス  (Юлия Загс)

エドゥアルド・クズネツォフ  (Эдуард Кузнецов)

パヴェル・リトヴィノフ  (Павер Литвинов)

クロニード・リュバルスキー (Кронид Любарский)

ヴラヂーミル・マクシーモフ  (Владимир Максимов)

ヴラジーミル・マリンコーヴィチ、ガリーナ・マリンコーヴィチ  (Владимир и Галина Малинкович)

ライサ・モローズ  (Раиса Мороз)

ヴィクトール・ネクラーソフ  (Виктор Некрасов)

ヴラドレーン・パヴレンコフ、スヴェトラーナ・パヴレンコフ (Владлен и Светлана Павленковы)

レオニード・プリューシ  (Леонид Плющ)

ガリーナ・サーロヴァ=リュバルスカヤ  (Галина Салова (Люварская) )

ジーヤ・スヴェトリーチナヤ  (Надия Свитличная)

パヴェル・ストカテリヌィ  (Павел Стокательный)

ヴァレンチン・トゥルチーン  (Валентин Турчин)

ボリス・シュラーギン  (Борис Шрагин)

ユーリイ・シュテイン、ヴェロニカ・シュテイン  (Юрий и Вероника Штейн)

タチヤーナ・ホドローヴィチ  (Татьяна Ходорович)

 

 署名者のプロフィールを見ると、ウクライナ出身の人々が多く名を連ねているのが目を引きます*3。この時期、ロシア、ウクライナポーランドのそれぞれの国の異論派の関係は、必ずしも全面的に良好とはいえない状態にありました。そうした状況のなかでも、Континент 誌および Kultura 誌周辺の人々は、民主化に向けた諸国間の協働を実現すべく、努力を重ねていたことが知られています。互いのあいだでも難しい歴史的問題を抱えていたロシアとウクライナの人々が、自らの歴史的責任を直視するという誓いのもとに集まったこと、そしてその成果がポーランドの知識人の協力のもとに公表されたことは、彼らの共通の課題意識と願いを表すものと考えられます。

 

 40年前の惨劇が公正に追悼されるようになる、「その日はもう間もない (уже недалек тот день/ bliski jest już dzień)」。そう記されてから、さらに43年の月日が流れました。この間、問題を引き継いだロシア政府によって事件の再調査が行われ、ロシア大統領によってソ連の加害責任が明確に認められるなど、重要な進展が見られました。しかし、すでに2010年、30年前の声明を振り返るなかで存命の署名者たちが述べていたように*4、ロシア政府の対応は依然として十分なものとはいえず、また新たにソ連体制の犯罪を黙殺しようとする動きが広まるようになっていました。そして今日、かつてカティンの犠牲者への追悼を述べたその同じ口で、プーチンは新たな侵略戦争を指令し、戦争犯罪を正当化し、そして自国とウクライナの民主主義を破壊しようとしています。2014年以来、ロシア国家が行なっている戦争は、ウクライナの人々の生命を奪い、生活を破壊するのみならず、民主主義と歴史の真実 (今日ではあまりにも陳腐に響く言葉かもしれませんが) のために闘ってきた、全ての人々の願いと努力を踏み躙るものです。

 

 2010年代以降、ロシア・東欧諸国間の対立の深まりとともに、歴史認識上の軋轢という問題への関心も高まっています。しかし、そのような状況であるからこそ、かつて困難な状況のなかで行われ、そして今日も困難な状況のなかで続けられている、記憶と和解へ向けた取り組みの意義が、改めて問われなければならないと強く思います。

 

 

カティンにおける虐殺から83年目の追悼記念日に

*1:当時のКонтинент誌および Kultura 誌の紙面は、こちらこちらで確認することができます。声明が掲載されているのは、それぞれ142頁と143頁のあいだの頁 (頁数記載なし) 、そして74頁です。また、1981年にマクシーモフが受けたインタビューでは、声明の裏にあった問題意識が語られています (こちらのページの後半部で読むことができます)。原語を使われる方は、ぜひこれらの資料もご覧になりつつお読みいただければ幸いです。

*2:一部の署名者に関しては、残念ながらプロフィールに関する情報を集めることができませんでした。また、おそらく非ロシア系と思われる方についても、私の言語能力の都合上、ほとんどの場合ロシア語のページを示しています。

*3:ロシアとウクライナ以外のソ連構成国家からは、リトアニアの作家ヴェンツロヴァが参加しています。

*4:こちらのページで読むことができます(ポーランド語)。ロシアの署名者たちはその後もプーチン政権に批判的な姿勢を保ち、最近まで存命だったアレクシェーエヴァやブコーフスキーは、2014年のクリミア占領にも反対を表明していました。